明淡商店街


明淡商店街は名前のとおり明石と淡路の人たちに支えられ、淡路の人にとっては、高速船から明石駅までの導線として通勤に通学に行き慣れた商店街になっています。現在でも岩屋、宮島を中心とした淡路北部の皆様は、高速船淡路ジェノバラインを利用して、通勤に、買い物に、明石を訪れています。休みの日には家族そろって、明石を経由して神戸などへ、帰りはまた明石で買い物をする人も少なくありません。
近年、人気の高まりからサイクリングをされる方々が明石港の高速船・淡路ジェノバラインを使って淡路に渡られる事がよく見受けられ賑わっています。
また、明淡商店街は古くから商いをされている老舗も多く、魚の棚西口にも面し多くの皆様に愛されています。

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明淡商店街の歴史


商店街でもっとも古くから商いをされているお店の記録から見る

明淡商店街でもっとも古くから商いをされているのは「麹屋京作」。その当時、西本町(現在の明淡商店街)の明淡通西側にあった。代々「京屋作兵衛」を名乗り、越前大野から松平の股様にともなって明石へ来たと伝えられています。この殿様とは明石藩第8代藩主松平直明のことで、天和2年(1682)に明石へ入部しています。店の建物は2017年に通りに面した2階部分に覆いをして看板を掛け直し、家屋本体は昭和20年の空襲からも免れ、昔のまま250年以上経過しているといわれています。2階では立派な棟木や梁・柱などの躯体が現れていて、時代の重みを感じます。幕末頃の当主に茶人がいて「尚古園」と号し、2階に茶室を設け知人を招いて茶を楽しんでいたようで、近年まで、多くの茶道具が残っていました。また、第二次大戦後は「尚古園茶舗」という名前で茶を販売していた時期もあり、当時の茶箱や大きなガラスのショーケースが今も店頭に残っています。ここ「京作」の北隣は明治20年頃まで明石藩時代の藩医「松井家」であり、明治16年の資料には「松井保尚 西本町 内外科医」として記載されています。松井家の元純は190石取で、嘉永6年(1853)には松浦元瑞と同様に緒方洪庵の門人となっています。「京作」は江戸時代には、南に「松浦」北に「松井」という、藩医に挟まれた家であったことになります。古文書などの記録資料的なものが残っていないため詳細は不明ですが、最後の明石藩主松平直致から拝領した着物の他、小刀・三つ葉葵紋入り盃(台付き三重重ね)や家紋入りの陣笠、多くの提灯などが伝わっています。また、裏庭には明石城内にあったとされる石灯篭が据えられています。


明治期の書物から見る

明治期の書物によると明淡商店街は西本町と位置づけられ、湊に近かったため、米穀商と各種問屋が多く、それに伴い銀行が3行くあり、ビジネスセンターの様相であった。港と鉄道を結ぶ南北の道と西国街道の交点でもあり明石の中心地であった。人が行き交う場所のため、服装品関係(当時は呉服)の店は多いが、特に小間物や西洋雑貨の店が特徴的であった。

1917年(大正6年)頃は、主な交通機関であった船や路面電車の駅(現在はありません)などがあり、行き交う人々や地元の人の拠り所として賑わっていたようです。